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第4節 主題のまとめ1.なぜ、「子ども時代を子どもらしく生きる」が主題なのかずるはしない。この気持ちこそ、岩屋こども園アカンパニが培いたい精神です。なぜずるはいけないのかと問われても理由などありません。岡本夏木先生が、「よいことは、よいがゆえにする、悪いことは悪いがゆえにしない」それを学ぶのが幼児期だと書いておられるように、「たとえだれも見ていなくてもずるはできない」と、理屈抜きにそう思える倫理性は、子ども時代にしっかりと身に引き受けておかなければ、その後に万巻の書物を読もうとも、道徳の時間にどれほどのいい話を聞こうとも、あたりまえのこととして「ずるはしない」と思えるようにはなりません。書物や大人の話が子どもの肥やしになるためには、子どもの中にすでに「ずるはしない」がなければならないのです。ではなぜそれが幼児期に可能なのか。それは子どもが純粋だからです。
「ずるはしない」という枠組みは、子どもたちが遊びの中で自分たちでルールを作り、そのルールを守らなければそのグループから相手にされなくなるという経験を積み重ねることで得るものです。そしてそのルール作りや、ルールを守ることでルールから守られることを知るということの下敷きになっているものは、おそらく大人との約束関係によるのでしょう。でもそれだけでは、なぜ子ども時代なのかという問いには十分に答えてはいません。
子どもたちはおそらく、大人が想像する以上に新鮮な驚きをもって、さまざまな体験を積み重ねています。バッタと出あい、木の実を食べてあまりのすっぱさに顔をしかめ、跳べそうもないところを跳んでみて出血し、大人のすることに感心してみせたり、友だちに意地を張ってみせたかとおもえば、一緒が楽しいといってみたり・・・。工作に挑戦して創るよろこびを知り、歌い踊って内なるエネルギーを爆発させ、物語に胸を躍らせ・・・。
そうした新鮮な驚きの連続のなかで、「我を忘れて没頭する」ことにかけては、大人はとても子どもに敵いません。その純真な精神が、「ずるはしない」を培うのではないでしょうか。子ども時代が人の生涯でもっともかけがえのない時代なのです。そして、この子ども時代のかけがえのなさに、子どもらしさもあるのです。「意欲の水瓶」はなにも、やる気をためるための入れものではありません。新鮮な驚きを保持するための器なのです。
ですから、〈取る:取られる〉の関係を子どものけんかとみなし、子どもどうしのトラブルだと判断して仲直りすることのみを子どもに求める保育からは、「ずるはしない」という倫理観は育ってきません。トラブルの解決から子どもは、自己主張と協調を学ぶのだというだけでは、不十分なのです。子ども時代を生きる子どもたちは、子どもどうしの激しい牽制のなかから、ぎりぎりのところで「ずるはしない」を学び取ってゆきます。
そうした新鮮な驚きの連続のなかで、「我を忘れて没頭する」ことにかけては、大人はとても子どもに敵いません。その純真な精神が、「ずるはしない」を培うのではないでしょうか。子ども時代が人の生涯でもっともかけがえのない時代なのです。そして、この子ども時代のかけがえのなさに、子どもらしさもあるのです。「意欲の水瓶」はなにも、やる気をためるための入れものではありません。新鮮な驚きを保持するための器なのです。
ですから、〈取る:取られる〉の関係を子どものけんかとみなし、子どもどうしのトラブルだと判断して仲直りすることのみを子どもに求める保育からは、「ずるはしない」という倫理観は育ってきません。トラブルの解決から子どもは、自己主張と協調を学ぶのだというだけでは、不十分なのです。子ども時代を生きる子どもたちは、子どもどうしの激しい牽制のなかから、ぎりぎりのところで「ずるはしない」を学び取ってゆきます。
ですからそこに大人が安易に介入してしまっては、子どもたちのなかに「ずるはしない」は育ちません。また、その"ぎりぎりのところ"こそ、子どもの純真さの現れであり、繰り返しになりますが、そのために子どもたちは新鮮な驚きと出会わなければならないのです。そこを急がせてしまっては、子ども時代を子どもから奪うことになるのです。
ではなぜ大人は子どもから子ども時代を奪おうとするのでしょうか。 いまの世の中は、価値の基準が損得におかれています。子どもの将来を案じる大人は、子どもの将来を先取りしようとしますが、その将来も損得勘定に基づくため、早期教育や学歴へのこだわりが生み出されてしまうのです。いま、その「得の先取りの魔の手」が乳幼児期の子どもたちにまで及ぼうとしています。大きいことはいいことだ、はやいことはいいことだ、という思い込みから大人が解放されなければなりません。そのために大人は、子ども時代を生きる子どもたちから、多くを学ばなければならないのではないでしょうか。 |